命の横領
私は自分を大器晩成型だとずっと思っている。
若さを奔放に弄ぶべき10代の頃からずっと考えていた。
20代もそう思って過ごしていた。
周りが女子大生を武器に無邪気に残酷に遊んでいる時も、どうにもしっくり来ず、ずっと自分のステージは今ではないという思いがずっとあった。
一般的に20代が女の栄華のような呪いがじんわりと覆う日本で、何故そう思ったのかわからない。
この呪いに関しても、ここ数年でそういうものがあるんだと知ったくらい、ある種自分の行く末に夢中だった。
その間辛抱を重ねたとかいうこともなく、辛い思いをしたわけでもなく、それなりに楽しんでいたけれど、『今、私を通り過ぎる有象無象は、30を過ぎてから、少しずつ花開くんだろうなと、学べるなあ』と思っていた。
とか言いつつ、もちろんその場その場で悲しんだり怒ったりしていた。
でも、少しずつわかってきた。
今のうちにこういうのも経験しといた方がいい、と。
そう気付いてからは、瞬間的にボルテージが上がるも、これはつまりどういうことだ?と考える癖をつけた。
その方が、より襞が、より皺が刻まれると考えたからだ。
ありふれた言い方だけど、無駄なことも無駄だってわかっただけ儲けものと思っていた。
若さってなんなんだろう。
確かに若さはいずれ通り過ぎて行くものだからこそ、眩しくて尊い。
若さにしかないものもある。
でも、若さは全てではない。
若さは美しい。
しかし、美しさとは若さではない。
とかく、日本では若い女性ということが消費されやすい。
いずれ次の季節に向かうからこそ、それを楽しみ尽くすのは良い。
しかし、そこに寄っかかって、傍若無人にその若さを掲げ、まるで喰い漁るかのように、それを拠り所にした挙句、若さを失いかけていると自覚するあたりで焦る様とは。
だから、どうせなくなるものに固執しても仕方ないから、興味がなかった。
打算的かつ性格が悪いから、大器晩成の方がおいしいなと思っていたくらいだから。
いずれなくなるものに固執して、焦りにかられたところで、人生は簡単に終わらない。
若さだとか老いだとかそういうものに左右されない自分であればずっと楽に過ごせると思った。
むしろ、早く30代になってしまいたかった。
私がどんなに関係ないと思っても、20代の女として見られることは、爪を立ててもなかなか剥がれないシールの残骸のようで目に障るから。
今思えば、そんなに躍起にならなくてもよかったと思うけど。
私は人の評価で自分を振り回したくない。
評価というのはありがたいことだし、社会で生きていく上で必要なことだけれど、他人の評価に自分の本質が脅かされてはいけない。
また、人の評価により振る舞いを決めるべきではない。
社会性を持ち合わせつつ、この姿勢を保つのは大変に難しいと思っている。
思っているけれど、常に自分のことは自分で決めたい。
自分のブランディングはしっかりしたい。
それはつまり何を選び取るか、どんな言葉を話すか、どんな思考を重ねるか、どんな装いをするか、どうなりたいか、どう見せたいか。
それを積み重ねて、爆発したい。
だからどんどんと生きていかなきゃならない。
やりたいことはやる。
いつ死ぬかわからない。
いつ死ぬかわからないからってなんでもかんでも出来ないのはわかってる。
でも、エネルギーが爆発するような感覚のその瞬間、その瞬発力に身を焦がして、どんどんと身体を使う。頭を使う。景色が変わる。
そんな瞬間があることを知っているから、今の今の私はだらだらしてる。
その時が来るまで、爪を研いで過ごしている。
大器晩成の晩がいつになるかは分からないし、見通しもつけていないけど、ずっとそんな心意気で人生を生き切りたい。
今度はもっと軽いこと書こうっと。